風治八幡宮は古く伊田大神と稱(しょう)して海津見神(わたつみのかみ)を祀りし地主神にてありしが、神功皇后御征韓の砌(みぎ)り、筑紫より穴門(山口県下関)の豊浦に環御の折、俄(にわ)かに暴風雨起こりし為、社前の大石に腰を掛け給いて、親しく御佩(おはか)しの太刀を献上して天神地祓及伊田大神に祈願せしに暴風雨忽(たちま)ち治まりつゝがなく穴門に至り給う。降って弘仁五年六月大旱魃(だいかんばつ)により五穀、悉(ことごと)く枯れんとせしに郡司、伝教大師をして伊田大神に祈念せしめ潤雨(じゅんう)ありて五穀豊穣す。
弘仁八年、伊田宮山の地に社殿を造営し、霊験あらたかな奇瑞(きすい)を後世に伝えるため、風の一字を加えて風宮とし、蓮台寺・長松寿院の両院を開いて神宮寺となす。
元和元年國主細川公、手永制度を定め(上赤、下赤、山浦、大内田、小内田、上今任、下今任、桑原、秋永、安永、伊加利、上伊田、中伊田、下伊田 十四か村を伊田手永と稱(しょう)す)當社を伊田手永大社と定め崇敬厚く、降って元禄元年國主小笠原公聖后御凱旋の神徳にちなみて風治の字を贈りて風治八幡宮と改稱し今日に至る、五穀豊穣、殖産工業、厄除開運、交通安全守護神として崇敬篤く参拝者のたゆる事なし。
なお、平成19年2月に「神社」から「宮」になりました。
社紋「左三つ巴」